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第七章 星が宿る

「……ニコ、ちょっと来い。綿ひきずり出してやる」
 帰宅したレスターは、居間のテーブルでエリスと仲良く向かい合って、お茶を飲んでいたうさぎのぬいぐるみを睨みつけた。
「やだよう、おまえホンキだもん。エリスたすけて、レスターがこんなにかわいいおれをいじめるんだ」
「レスター、ダメだよ。ニコが可哀相」
「可哀相なのはお前の思考回路だろ、お姫。どこの世界にぬいぐるみと茶を楽しむ女がいる」
「え、ここにいるけど……」
 だってニコお茶もご飯も食べられるって言うから……ダメ?と不思議そうに言えば、レスターは疲れたように深いため息を吐いた。
「お前、なにげに昔から非常識人だよな」
「そ、そんなことないもん」
 ぬいぐるみの淹れてくれたお茶を一緒に飲み、ぬいぐるみとお喋りを楽しんでいたエリスは、力強く否定した。
「だいじょうぶだぞ、エリス。こんなこと言ってるけど、レスターもいつもは、おれとごはん食べてるから。いっしょにりょうりだってするし、おひるねもするぞ」
「お前それ以上喋ったら縫い目ほどくからな」
「うわーんっ……!エリス〜っ、レスターがいじめるよう〜!」
「レスター……!可哀相だよ……っ」
 珍しくも本気で怒ったエリスと、その膝に抱きついたニコを冷ややかな眼で見下ろして、レスターは「居候が揃いも揃って、でかい面してんじゃねぇ」とコワイ声で言った。それに一人と一体はびくびくと沈黙する。本気で怒ったレスターほど怖いものはない。
「なんで勝手に動き回った、ニコ」
 問われたニコは、そわそわしながら答える。
「ん、あー、その。そうじ、しなくちゃと思ってな。ほら、おれ、きれい好きだから」
「俺はお前にお姫がいる間は動くなって言わなかったか?」
「………うん、言ったな」
「人形なら人形らしくしてろ。それが嫌なら出て行け」
「レスター……!」
 エリスは驚いて、すぐ傍に立っている彼の袖を掴んだ。
「ちがうの、あのね、わたしがお掃除うまくできなかったから、それでニコが手伝ってくれたの。ニコはぜんぜん悪くないの……っ」
「エリス」
 言い募ったエリスに、ニコは首を横に振った。こっそり小声で言う。
「エリス、おれはいいんだ。今のはな、口ぐせみたいなもんだから。レスター、ほんきじゃない。おれ、ちゃんと知ってるから、だいじょうぶだぞ。それより、エリスがそうじしてたことの方が」
「問題だな」
 小声だったのに、レスターの耳にはしっかり届いていたようだ。魔王さまも裸足で逃げ出すような怖い雰囲気で、彼はエリスを睨んだ。
「俺はお前にも言ったはずだぜ、お姫。ちょろちょろすんなって。誰が掃除なんて頼んだ、病み上がりの虚弱体質に。また寝込んで俺に迷惑かける気か?」
 あまりにも厳しい言葉に、エリスは何も言えず、しょんぼりとうな垂れた。じんわり涙が浮かぶ。
 だって、お部屋、ニコと一緒に綺麗にしたのに。がんばって、レスターに喜んでもらおうと思っただけなのに。迷惑をかける気なんてなかった。
 そう思ったけれど、レスターが心配して言ってくれているのだということは分かるから、反抗するような言葉は呑み込んだ。
「ごめんなさい……」
「で、そりゃ何だ」
「……?」
 突然訊かれて、エリスはきょとんとした。
 レスターの視線を辿る。
 彼はエリスの着ているシャツの裾を見下ろしていた。すでに乾いているが、汚れた水を吸い取った跡が残っている。
「あ」
(そ、そうだった。汚しちゃったんだ)
 それも雑巾みたいにして。
「あの、ごめんなさい……!わたし、自分で洗うから!あ、でも、あの、お洗濯の仕方、教えてもらわなきゃ、なんだけど………でもちゃんと綺麗にするから……!」
 勢い込んで言ったら、レスターの眉間の皺が深まった。
 もしかして、このシャツの汚れは落ちにくいのだろうか。
 エリスはおろおろして、また言った。
「ご、ごめんねレスター……わたし必ず汚れ落とすから……えと、石鹸、一番きれいになるやつ探して買ってくるね。大きな街まで行けば、石鹸売っているお店、たくさんあると思うし……じゃ、あの、行ってきます……!」
 お金を持っていないことも、徒歩ではたどり着けないことも、自分がひ弱なこともすっかり忘れて立ち上がる。
「………………」
「お、おいエリス」
 レスターが沈黙し、ニコが心配げに見上げてきたが、エリスは元気よく玄関の戸の前まで歩いていった。
 ところが、エリスが戸を開けようと取っ手を握った瞬間、大股でやって来たレスターの手がバン!と戸の上のほうに叩きつけられた。
「きゃ……っ」
 エリスが身を縮ませながら見上げると、レスターはこの上もなく冷ややかに見下ろしてくる。
 琥珀の瞳は剣呑に細められていた。
 昔と同じ。
 苛立ちと怒りを内包した、怖い眼。
「レス……」
「―――――俺はじっとしてろと言ってるんだ、この鳥頭」
 感情を押さえつけたような、低い声。
 エリスの背筋は凍りついた。
 こんなレスターを見るのは、久しぶりだった。
 初めて会った頃を思い出す。
「ご、ごめんなさい……」
 青ざめて謝っても、レスターの追撃は止まなかった。
「大体、そのお姫サマ人生に必要もない生活力を身につけるより先に、お前には考えなけきゃならねぇことがあるだろうが」
「………はい」
 その通りだった。
 一人でできることが増えれば、今より少しは人の世話にならなくてもよくて、成長できるというか、変われる気がしたのだけれど。
 でも、そんなことよりもまず、体調が落ち着いたからにはこれからのことを考えなければならなかったのだ。
 少しばかり、現実逃避しかけていた。
 エリスには、レスターに聞いてもらいたいことがあったのに。
 ヘルムートとのこと、これからのこと。
「レスター、あの、わたし相談したいことが」
「わかってる。旦那のことだろう。――――聞いてやるが、とりあえず今は着替えて横になれ」
 視線の冷たさは変わらないけれど、レスターの声は少しばかり和らいだ。
「顔が赤い。調子に乗って動き回るから、また熱が出てきたんだろう」
 エリスは首を傾げながら、自分の頬を触った。
 熱いかどうか、自分では今一つ分からないけれど、言われてみれば掃除前より身体が重い気がしてくる。たったあれだけの動きで疲れが出るとは何とも情けない、と毎度のことながら、エリスは自分自身にがっかりした。
 ニコも椅子の上からエリスを見上げ、「うん、赤いな」と言う。
「でもわたし、大丈夫だよ。このくらいなら……」
 慣れているし、と続けようとしたエリスをさらりと無視して、レスターはニコに命じた。
「この病人を寝かしつけて来い」
と。

   * * *

 

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