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第三章 花園のふたり

 そして、その言葉を裏付けるようにヘルムートは初夜以来エリスを抱こうとしない。
 初夜のときは、きっとその日くらいは我慢して抱いてくれるつもりだったのだろうけど、でもエリスは彼が触れる前に嫌がったあげく気を失ってしまった。
 愛してもいないうえ、なんの魅力もない相手に拒否されるなんて、気分を害するに決まっている。――――もう二度と抱く気も起きないほどに。
 そんな風に、初めにヘルムートを拒否したのはエリスほうだったので、彼から見向きもされなくなったのには、自分の態度にも原因があるとわかっていた。
 たとえ先に、あの蔑みに対するヘルムートの肯定を聞いたことがすべての始まりだったとしても。
 ヘルムートは、エリスにそれを面と向かって言ったわけではなく、表面的には前と変わらず優しくしてくれているのだから、そんな彼をいきなり拒否したエリスが悪かったのだ。
 だから、あの翌日の晩、エリスは勇気を振り絞って今度こそは妻としての務めを果たそうと思い、ヘルムートの訪れを寝室で待っていた。
 あの会話に対する動揺から立ち直ってはいなかったし、彼を見ると心がずきんと痛んだけれど。
 それでも、昨夜はヘルムートに対して失礼な態度だったし、これ以上、呆れられたり蔑まれるようなことはしたくない。そう思ったから。
 でも、ヘルムートは来なかった。そのことに深く落ち込みながら、エリスは悩んだ。昼間は「式で疲れてたんだろうから、気にしなくていいよ」とあんな態度をとったにも関わらず、エリスの身体を気遣ってくれたけど、やはり怒っていたのだろうか。いや、それともやはり、エリスのことなど抱きたくないのかもしれない。
 エリスはひとり悩んで傷ついて、自分の中にそれを抱え込んだ。
 そして、ヘルムートに対して以前通りに接することができなくなってしまった。彼がエリスに面と向かって何か言ったわけでもしたわけでもないのに、傍にいるだけで何だか怖くて落ち着かなくて。
 以前はあんなに、誰よりも安心できた人なのに。その真意がわからなくて、また傷つけられるような気がして、だからエリスはヘルムートに怯えるようになってしまった。
 ヘルムートは、そんなエリスの様子を訝って、なぜ自分に怯えるのかと直接的に聞いてきたこともあったが、エリスはその理由を言えなかった。――――言えるはずもない。もしあのときの言葉の真意を問い質して、面と向かって蔑まれたらと思うと、弱虫なエリスは押し黙るしかなかったのだ。
 ヘルムートは、それから何度か繰り返し理由を聞いてきたけれど、エリスは次第に何の言葉も出なくなってしまった。胸が詰まって何も言えなくて、苦しかった。
 結婚後まもなく、エリスが声を発さずにただ泣きはじめたのを見て、とうとうヘルムートはこの関係が破綻しかけていることに気づいたようだった。
『―――エリス。僕はきみの家族になったんだから、思っていること、なんでも言っていいんだよ』
 ヘルムートは、そう言ってくれた。優しさと慈しみに満ちた声だった。
 でも、エリスはやはり泣くばかりで何も言えなかった。
 そんな風に、二人の新婚生活は始まったばかりで息詰まるものになって、そのうちエリスの言葉も戻って来たけれど、その頃にはもうヘルムートはエリスを問い質したりはしなくなっていた。
 そして、ただよそよそしさだけが残った。ぎこちない会話や、すれ違う毎日だけが。
 ―――――どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 エリスはずっと、幼い頃のようにヘルムートと穏やかで満ち足りた時間を過ごせれば、それでよかったのに。
 でも、ヘルムートはそうではないのだ。彼は乗り気でないのに仕方なしに結婚して、だから他の女性と浮気して……。
 いったいどれだけの女性が彼と一夜を過ごしたのだろう。ヘルムートが他の女性と過ごしていることを想像すると、悲しくて、嫌でたまらなかった。
 けれど、親に頼まれて無理に結婚してくれたヘルムートに、その浮気を責めたり、自分だけを見てほしいといって縋ったりはできなかった。これ以上厄介な存在だなんて思われたくなくて。
 だから、エリスは何も言わずにただヘルムートがちゃんとこの家に帰って来るのを待つことしかできなかった。妻である自分だけが、彼に必要とされていない現実を受け止めながら。
 その一方でエリスは、初夜、彼に抱かれなかったことはむしろよかったのではないかと思うことがある。
 こんな貧相な身体を、多くの女性たちを抱いてきたヘルムートの前に晒すのは恥ずかしいし、みっともないから。
 エリスの望みは、ヘルムートと夜を共にしたいというより、ただ以前のように温かな時間を一緒に過ごしたいということだった。
 そして、そのささやかな望みのために少しでも開いてしまった距離を縮めたくて、エリスは気を奮い立たせて朝食を共にしたりしていたのだが、いつもうまく機会を活かせない。
 ―――――そう、こんな風に。
ヘルムートに顔を上げるように言われた、たったそれだけのことを拒否してしまったエリスは青ざめながら思う。
(どうしよう)
 こんな寂しい関係を変えたいと望んでいるのに、顔を見られるのも怖いなんて。
 彼に触れられても平気になるにはまだ時間がかかるかもしれないが、でも、せめて会話くらいは以前のように普通にできるようになりたい、そう密かに決意していたのに。
 なのに、今こうしてヘルムートの綺麗な顔を前にすると、「青白くて貧弱」なエリスは何も言葉が出てこなくなる。
 何が言えるだろう。
 何を言ったら、嫌われずに済むのだろう。
 どんな態度だったら、これ以上ひどく思われずにいられるのだろう。
 そんなことばかりが頭を支配して、言葉ではなく涙が込み上げてきて、泣いたら余計うっとうしいと思われるのではないかと考えると、ぐっと呑み込んで黙り込むしかなくなる。いつもその繰り返しだった。
 そんなエリスに、
「きみは、顔を上げることも出来ないの?」
 と、ヘルムートの硬い声がかけられた。
 

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