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第三章 花園のふたり

「……ごめんなさ……」
「そうやって謝ってばかりだ。――― 一緒にいるのが嫌なら、いっそそう言えばいい」
 違う。
 それが嫌なのは、あなたの方じゃないの?
 エリスは息を飲み込んだ。胸が詰まり、言葉が出ない。
 あの言葉を思い出したら尚さらだった。彼が、今どんな目で自分を見ているのかと思うと、小さな決心など忘れて堪らなく逃げ出したくなる。
 たくさんの矛盾を抱えた心が悲鳴を上げる。
 木漏れ日の下、俯くエリスの肩はいつしか震えていた。
 好きなのに、誰より想っているのに、その人のことが怖いと感じる自分はおかしい。
 どうしてもっと、素直に好きだという気持ちを表すことができないのだろう。
「よほど」
と、ヘルムートが呟いた。
「きみは僕が傍にいるとつらいらしい」
「え……」
 そうじゃない、つらいのは、傍にいるからじゃなくて。
 心が通わないからなのに。
 思いもよらないことを言われたエリスは、反射的に顔を上げた。
「……!」
 そこに、射るようなアメジストの瞳があった。
 ヘルムートは怒っているのだ。あまりにもひどい妻の態度に。
 それは当然といえば当然だった。ヘルムートにしてみれば、何もしていないのに急にエリスに怯えられるようになったのだから。
「……お前は本当に馬鹿だね」
 エリスをじっとその瞳に捉えながら、ヘルムートは冷たい口調で告げる。
「どんなに嫌いでも、僕は妻である限りきみを―――――」
 嫌い、という言葉にエリスは目を瞠った。
(嫌い……?いま……、ヘルムートさま、わたしが嫌いって言ったの………?)
 風がひときわ強く吹き、続くヘルムートの言葉はエリスには届かなかった。
 しかし、いずれにしろエリスは直前の言葉の衝撃で動揺していたので、続きを聞くどころではなかっただろう。
(ヘルムートさまは私が嫌い……)
 あの悪夢のような結婚式からずっと、エリスは彼に好かれてはいないけれど、はっきり告げられるほど嫌われているわけでもないと信じていた。
 それだけは無理にでも信じていたかった。
 けれど、それは間違いだったのか。
 結婚式の日、ヘルムートが肯定する言葉を聞いてからずっと、そうじゃなければいいと思ってきたのに。
 エリスの目には、堪えきれぬ大粒の涙が溜まっていく。
「……ヘルムートさま……」
 震える声で、ようやくそれだけが言えた。
 けれど、ヘルムートは何も聞く気はないようだった。彼は名を呼ばれても残酷に続けた。
「僕は一年も我慢した。本来、そんな必要もないのに」
 分かっています、とエリスは零れる涙もそのままに思った。
 ヘルムートは両親に頼まれたから結婚してくれた。それがなければ、彼はこんな望みもしないエリスとのつまらぬ暮らしに我慢することもなく、自由に女遊びを続けることも、他の女性と結婚することもできたのだ。
 ヘルムートの人生を壊したのは、エリスなのだ。嫌われても、仕方ないのだ。
 とうとう耐え切れずに、エリスは泣きじゃくり始めた。
 しかし、ヘルムートは以前のように彼女に「泣くな」と言って頭を撫でたりはしなかった。それが余計に悲しくて、涙は次から次へと溢れ出た。
 どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
 いつからこの人は、自分を嫌っていたのだろう。
 天使のように美しい、意地悪で優しい男の子はいつから。
「エリス……。これまで何度も尋ねたけど、きみはどうしてそんなふうに……」
「ごめ、なさ……」
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
 ヘルムートがまだ言葉を続けているのに、エリスは耐えられずに踵を返して走り出した。
「――――エリス!」
「…………ふっ、ぇ」
 纏っていたショールが落ちても、エリスは泣きながら樹木や花々の茂みの間を走った。
 しかし、体力のない彼女のこと、いくらも走らぬうちに息が上がってきて、心臓が壊れそうなほど大きく鳴っていた。
「……っ、あ……っ」
 呼吸がうまくできなくて喘ぐ。苦しくて堪らない。
「走るな!」
 言うが早いか、ヘルムートの大きな手がエリスの細い腕を掴んだ。
「や……っ」
「エリス!」
 暴れるようにもがくエリスを、ヘルムートはいとも容易く腕の中に閉じ込める。一見そうは見えないが、彼は騎士でもないのに剣を持つため、非常に鍛えられた身体をしている。人並み以下のひ弱な妻を抱き込むことくらい造作もないことだった。
「いやっ、もう…、何も聞きたく、な……!」
「エリス!」
 足が崩れ落ち、エリスはそのまま意識を失った。


   * * *


 彼女は身体が弱かった。十八年生きる間に、二度も生死の境をさまよった。
 そんなわけで、今と同じく子供の頃も、ほとんど屋敷の内でしか過ごせなかった。
 あるとき、それを憐れんだ両親が彼女を近くの丘まで遊びに連れて行ってくれた。近所の子も何人か一緒だった。
 みんな気を遣って彼女の傍で話し相手になるばかりで、内心ではつまらなさそうだった。
 だから、彼女は絵を描くことにした。みんなが遊んでいる絵だ。
 彼女は両親の傍に座って、一人もくもくと描いていた。身体が弱くて何もできない彼女に、絵を描くことを勧めてくれたのは画家である伯父だった。女画家のほとんどいない時代に、なんとも変わった趣味を与えてくれたわけだが、彼女の意思を尊重してくれる両親は何も言わなかった。
 そろそろ描き終えようかというとき、その少年は現れた。
 その背に翼がないことが不思議なほど、天使のように綺麗な容貌をした少年だった。
 彼は初めて会った彼女に、また会うことを約束して去って行った。
 あのとき彼女は、本当はみんなと一緒に緑の丘を駆け回りたかった。
 でもそうできなかったおかげで、彼とああして出会えたのなら、淋しかったけれど一人で絵を描いていてよかったと思う。天使のような彼は、それから何度も彼女の絵に惹かれて現れるようになったから。
「きみの絵は純粋で、きれいだね」
 彼はそう言って彼女の絵を飽きずにずっと眺めてくれたけれど、彼女は知っていた。
 この世には、自分の絵より綺麗なものがあることを。
 彼女は内緒でそれを描いた。完成してから見せようと思っていた。
 けれど、その絵は一度も彼に見せることなく手放してしまった。
 そして、二度と同じものは描かなかった。描いてはいけないと、禁じられたから。
 そのことを、彼女はずっと彼に内緒にしていた。

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