prev / 天使の落下 / next

第四章 秋のお祭り

 エリスはいつも言葉を見失う。傷つくのが怖くて、一歩も踏み出せない臆病者だ。こんな調子では、コレットが助言してくれた言葉なんて永遠に言えそうになかった。


「―――――冗談だよ」


 エリスがいつまでも俯いているのをうっとうしく思ったのか、ヘルムートがため息と共に言った。
「冗談だ」
 と、彼はもう一度、今度はいくぶん柔らかな口調で言った。
「きみといるから疲れるんじゃない。―――――ちょっと仕事が忙しくてね、疲れがたまってるんだ。だから今のは八つ当たりだよ。悪かったね」
 エリスはその言葉に、そっとヘルムートを仰ぎ見た。
 そこにいたのは、いつも通りの優しいヘルムートだった。
 彼はエリスの弱々しい視線を受けて、苦笑を浮かべて言った。
「でも、こんな時間に来るのはもうなしにして」
 エリスは彼がいつも通りであることに安堵して、こくこくと頷いた。
 怖かった。
 本当に、怖かった。
 先ほどまでのヘルムートは、エリスの知らない雰囲気を身に纏っていて―――――まるで知らない男の人のようだった。
「ごめんなさい……」
 そして、涙を拭おうと両目を閉じた時だった。
 自分の手が目尻に届くより先に、何か柔らかなものがそっと触れていった。その温もりは、先日寝込んだ時、真夜中に目覚める前に額に感じたものによく似ていた。
「――――?」
 今のは、何だろう。
 エリスが目を開けると、息がかかるほど近くにヘルムートの顔があった。
「きゃあっ」
 思わず悲鳴をあげたエリスは、すぐさま自分の口を両手で押さえた。
 またやってしまった。
 そう思って血の気が引く。もう一拍前の出来事など頭から飛んでいた。エリスはただ、またしてもヘルムートに悲鳴をあげてしまったという失態で頭がいっぱいだった。
「………やっぱりきみの悲鳴って威力にかけるよね。ホントに誰ひとり駆けつけないし。そんなんで何かあった時どうするんだか……」
 ヘルムートは別に怒ってはいなかったが、呆れたように言った。
「……まあ、僕には効くけどね……」
「え?」
「なんでもないよ」
 エリスはヘルムートがつけ足した言葉を聞き逃してしまい、首を傾げた。何て言ったのだろうと思いながら、ふと気づく。
 いつの間にか、ほんの少しだけ空気がやわらいでいた。
 けれど、もうこれ以上部屋にいては迷惑だろうと思った。どうしても、コレットが分け与えてくれた勇気が持続しているうちに、ヘルムートにお詫びとお礼を言って、それから許されるなら少しだけ話をしたいと思って来たけれど。訪ねるべきではなかったのかもしれない。
(お仕事で疲れてるところにわたしが来たら、余計に疲れるの、当たり前だ……)
 エリスにはよく分かっていた。ヘルムートが、『仕事で疲れて八つ当たりした』と言ったのは、自分に苛立ったことをごまかすための優しい嘘だと。
 本当は、話などしたくなかったに違いないのに。
 エリスはもう一度泣き出してしまう前に、よろよろと立ち上がった。
「エリス?」
 問いかけられたけれど、エリスはもう彼の顔を見るだけの勇気が湧かなかった。今はこれ以上、向き合う気力がない。
 エリスはぺこりとお辞儀した。
「お邪魔して、もうしわけありませんでした……」
「…………」
 返事はなかった。そんなことにまで、いちいち傷つく自分の弱さが嫌だった。
 緊張状態が続いていたからか、うまく足に力が入らず、エリスはのろのろと扉まで歩いた。
 けれど、急に身体がふっと軽くなった。と同時に、視界が高くなる。
「え…っ」
 思わずまた悲鳴をあげてしまいそうになった。
 だって。
 膝の裏と腰のあたりにしっかりとした支えを感じ、エリスは自分がヘルムートに横抱きにされていることを理解したのだが、びっくりしすぎて混乱してきた。恥ずかしくて訳がわからなくて、じたばたと腕の中でもがく。
「や……っ」
「や、じゃないよ。ったく、ちょっと調子が良いからって、どうしてそう無理をするんだか。亀じゃあるまいし、なにその鈍さ」
 不機嫌そうに言って、ヘルムートは扉とは反対側に歩き出した。エリスの重さなど何とも感じないように、軽々とした歩調で部屋を横切り、そのまま寝室へ続く仕切りを抜けた。
「え、へ、ヘルムートさま……??」
 どうして寝室に?と不思議がっているうちに、エリスはぽすん、と広いベッドの上に投げ出された。
「……っ」
 エリスの栗色の長い髪が、緩やかに白いシーツの上に広がった。
「ヘルムート、さま……?」
 転がった状態でヘルムートを見ようと思ったら、彼はもう背を向けて続き間との境まで戻っていた。
「あの…」
「そこで寝ていいから。部屋まで戻るのしんどいだろ」
「え……」
 ヘルムートはこちらをちょっとだけ振り返りながら、「僕は別の部屋で寝るから、安心してお休み」と言った。
「で、でも、あの…………」
「いいから」
(でも、ヘルムートさま、お疲れなのに) 
 自分のベッドで眠れなかったら、余計に疲れるのではないだろうか。
 エリスは茫然としながら身を起こしたが、ヘルムートの言うとおり、身体に力が出なくてしんどかった。
「……ヘルムートさま……」
 意地悪したり、優しかったり。
(なんで?)
 どうして嫌いだと言ったくせに、昔と同じように接してくれるのだろう。
 優しくいたわってくれるのだろう。
 そんな風にされると、誤解してしまいそうになる。
 嫌われてなんかなくて、ちゃんと、好かれているんだと。
「―――――きみの友達が教えてくれたんだけど」
 と、続き間に消えようとしていたヘルムートは急に立ち止まると、思い出したように言った。
 淡々としたその表情からは、なんの感情も読み取れない。
「きみ、……僕と豊穣祭に行きたいって本当に言ったの?」
「……ほうじょう、さい?」
 エリスはきょとんとした。
 そういう秋の催し物が、この王都の中心部にある街の広場で毎年行われていることは、知識として知っていた。
 しかし、そんなことをコレットに言った覚えはない。確かに昔から、一度は行って見たいと思っていたけれど。
 エリスが何のことか分からない様子なのを見て取って、ヘルムートは「やっぱりね」と呟いた。
「どうせバーンズ嬢のお節介だろうと思ったんだ。きみが僕と出かけたがるはずがないし」
「え……」
(コレットのお節介?)
 エリスはやっと気づいた。コレットは、いつもと違う雰囲気の中で、二人が話をするための機会を設けてくれたのだ。
「変なこと訊いて悪かったね。――――おやすみ、エリス」
「あ……っ」
 エリスはそのとき、確かにコレットに勇気を与えてもらっていたのだろう。
 だから、いつもなら尻込みしてしまうような大胆な行動に出られたのだ。
 何も考えていなかった。
 ただ目の前の人を捕まえたくて、待ってほしくて、転がるようにベッドから降りると、その広い背中に突進するようにしがみついたのだった。


   * * *

 

prev / 天使の落下 / next


 
inserted by FC2 system