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第五章 剣と盾

『強くなりたいなら、もう描くな』
 と、彼は言った。
『もともと弱い身体で、そんなものを描いていれば当然すぐ倒れるし、熱も出る。もう描くのは止せ。趣味なら他にいくらでも見つけられる』
 そうじゃないの、とエリスは首を横に振った。
『わたし、絵を描くのは好き。でも、それだけで描き続けているんじゃないの…』
『じゃあ、何のために描く?』
 彼は怪訝そうに訊いた。
 エリスは少しためらった後、内緒話をするようにそっと唇を彼の耳元に近づけた。
『あのね……』


   * * *


「レスター…」
 エリスの声はざわめきにかき消されるほど小さかったのに、レスターはちゃんと来てくれた。
 彼は亡き祖父の言葉通り、昔から困った時にはいつも力と知恵を貸してくれる。
 コレットと同じくらい頼もしくて、強い意思を持った男の子。――――今は、青年と言った方がふさわしい人。
「お姫。猫の子みたいな声出すな、しゃんとしろ」
 レスターは「仕方のない奴」、とでもいうような顔をして言った。
 その態度と口調は、そっけなくて厳しいものだったけれど、エリスは慣れっこだった。口では何だかんだと言っても、彼が優しい人だということは分かっているから。
 その姿を見て、エリスはほっと安心した。
 ああ、もう大丈夫だ。
 レスターが、来てくれたから。
「……ん、……うん…」
 エリスは彼の言葉に素直に頷き、濡れた頬を手の平でもたもたと拭った。
 昔から、エリスの周りの人々は身体の弱い彼女に甘くて優しいばかりだったけれど、レスターだけは違った。寝ついているからといって遠慮したり、甘やかしたりせず、駄目なところは駄目と注意してくれる、そんな貴重な人だった。
 エリスは初め、そのぞんざいな言葉遣いになかなか慣れなかったものだが、しばらくして、彼の言葉は嘘やごまかしがなく、本心を語るからこそ厳しいのだと気がついた。それが、どんなにありがたいことかも。
 レスターがいなければ、きっとエリスは甘やかされるばかりで、自分で何一つ考えない愚か者になってしまっていただろうから。
 彼は、幼い頃エリスの祖父が望んだとおり、彼女の良き相談役であり、大事な友達となっていたのだった。
「レスター、」 
 その存在を、弱り果てたエリスの心はいつも以上に頼もしく思った。涙に濡れた瞳で、彼を見つめたまま近寄ろうとする。
 しかし、エリスは一歩進んだだけでふらついてしまい、次の瞬間、急に目の前が暗くなった。
「え……」
 気がつけば、彼女の華奢で小さな身体はすっぽりとヘルムートの腕の中に収まっていた。
 『嫌い』だなんて、言ってしまったのに。それでもこの人は、ちゃんと支えてくれた。
 ――――でも、これではまるで……抱きしめられているみたいだ。
 骨が軋むほどの、強い力で。
 それに、広い胸に顔をうずめる形になっているのが苦しかった。
「いた、い…」
 その声が届いたのだろうか、ふいに身体にかかっていた重みは消え、代わりに肩に腕をまわされた。エリスを何かから守るように、抱き込むように。
(ど…して…?)
 訳が分からず、エリスは密着した状態で不安げにヘルムートを見上げたが、彼のアメジストの瞳はこちらを見てはいなかった。
「何しに来た、オルスコット」
 そう苛立たしげに訊くヘルムートに、レスターは肩をすくめた。
「何って、買出し。――――さっきも言ったが、そんな都合よく呼ばれてすぐに来られるわけねぇだろ。たまたま通りかかったら、騒いでるアンタらに出くわしただけだよ」
 と、彼は呆れ顔で答えた。
 その手には、確かに食料品らしき紙包みを抱えている。彼はどうやら、本当に偶然居合わせただけらしい。
 それでもエリスは、レスターが自分を助けてくれると思った。それが思い上がりではないことを、彼女は過去の経験から知っていた。
 どんな時でも、彼は文句を言いながらも必ず力になってくれたから。
「レスター…」
 エリスはヘルムートの腕の中から、泣き声交じりのか細い声でもう一度その名を呼んだ。
「――――エリス」
 けれど、それに反応したのはヘルムートの方だった。彼は陰りを帯びた、苦しげな瞳でエリスを見下ろした。
 ――――やはり、傷つけてしまったのだろうか。『嫌い』だなんて、酷いことを言ってしまったから。
 でも、エリスは自分の言動が、本気でヘルムートの心を左右するとも思えなかった。自分は、彼にとっては取るに足りない名ばかりの妻でしかないから。
 そう考えればつらさが増し、エリスは縋るようにレスターを見た。この場から、ヘルムートの傍から連れ出して欲しくて。 
 しかし、ヘルムートはそんな彼女の頼みの綱を、簡単に断つようなことを言った。
「エリスのことは僕が見る。さっさと消えろ」
 エリスは再び泣きそうになる。
 どうしてそんな意地悪を言うのだろう。
 名義上の妻の身を慮って?
 それとも本当に心配してくれて?
 エリスには、彼の本心は何一つ分からない。頭が混乱するばかりで、ぐちゃぐちゃになって、今は何もまともに考えられなかった。
 それに大好きな人だけど、傍にいたい人だけど、今はこれ以上一緒にいて傷つくのが怖いから、………離れたい。
 そんなエリスの心情を、重なった視線から察してくれたのだろうか、レスターはかすかに笑った。
「ああ、そりゃ結構。お守り役を免れるならそれに越したことはない。……が、あんたに指図されるいわれもない」
 と、彼はヘルムートの鋭い視線を平然と受け流した。
 空気が一気に緊迫する。
 どういうわけか、この二人は昔から仲が悪かった。殴り合いこそしないものの、顔を合わせるたびに今のように険悪な雰囲気になって。よほど気が合わないのだろう…エリスはずっとそう思っていた。
 

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