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第五章 剣と盾

 エリスは恐る恐るヘルムートの方に視線を向けた。
「オルスコット……、その手を離せ」
 怒りに満ちた声は低く、けれどよく通る。
 さっきの声は彼に似ていたけれど、でも。
 凄烈な気配を漂わせながらも、ヘルムートの言葉は冷静で、やはりあの罵声が彼だというのは何かの間違いだとエリスは思った。
 それでも、初めて見る彼の殺気すら感じさせる鋭い眼差しに、背筋がぞくりと粟立つ。
 これほど冷然とした人だっただろうかと、エリスは息を呑んだ。
「人の妻をかどわかす気か?」
 別人のような声音は、いつも以上にレスターへの敵意に満ちていた。
 けれど、その苛立ちはきっと自分にも向けられているのだとエリスは思った。彼に怒られて当然のことをしたから。呆れられて、もっと嫌われるような情けない姿までさらしてしまったから。
 彼の正妻のくせに、浮気相手の女性を前に堂々としていられなかったし、それどころか気圧されてしまった。それに、公衆の面前で彼に『嫌い』だなんて暴言を吐き、あげくに他の男性に助けまで求めてしまって。
 公爵家当主の妻ならば、何があろうと凛とした態度でいるべきなのに、自分はそれができなかったから。
 レスターがエリスの真下から声を発する。
「人聞きの悪いこと言うなよ。それに奥さん怯えてるぜ」
「黙れ。――――エリス、僕とうちに帰ろう」
 ヘルムートは不機嫌な表情でそう言い、こちらに近づいてくる。
 エリスはレスターにしがみつく手に無意識のうちに力を入れ、目をつむって首を横に振った。
 これ以上一緒にいたら、もっと恥をかかせてしまう。酷い態度をとってしまう。
 そして、自分もまた傷ついてしまう。
 臆病なエリスはヘルムートの視線から逃れるように顔を伏せ、ぎゅううっとレスターの頭を抱きしめた。不安な時は身近な人の温もりを感じたくなる、それゆえの行動だったのだが。
「お姫…。お前ちょっと考えて抱きつけよ」
「…え……?」
 レスターに呆れたように言われ、エリスはのろのろと顔を上げた。何を注意されたのか、よく理解できなかった。
 彼の頭を強く胸に抱き込むようにしていたから、苦しかったのだろうか。
 エリスはそう解釈した。
「あ…ご、ごめんねレスター…」
 謝っていると、ヘルムートがなぜだか一段とイライラした様子で、
「さっさとエリスを降ろして離れろ。そして二度と触るな」
 と言った。
 エリスはヘルムートが自分のことでそこまでレスターにきつく言うのは、やはり体面を気にしてのことだろうかと思い込んだ。
 悲しくて、誰かにすがりつきたくて、注意されたばかりだと言うのにまた無意識にレスターの頭を抱きしめる。
「お姫。…当たってる。抱き着くな」
「あ…ごめ…」
 エリスは身体をくっつけるなと言う言葉に素直に従い、すぐに距離をとった。
 とはいえ、抱き上げられているので近いことに変わりはないし、レスターが降ろしてくれない限り、エリスがいくら身じろぎしても意味がない。どうやったって接触してしまう。
 そこへ、ぞっとするほどの低い声がかけられる。
「――――クサレ魔法使い。お前とはこの場で決着をつけてやる」
 レスターはそれに対し、鼻で笑った。
「俺もあんたが気に食わねえけどな、公爵。人にはそれぞれ好みってモンがあるんだぜ」
「だったら人の妻にこれ以上ちょっかい出すのはやめてもらおうか。お節介ならよそでやれ」
 怖い雰囲気はそのままだが、会話の中身はいつも通りの喧嘩と似たような感じになっていた。
 この二人は昔から、エリスにはほとんど何のことか分からない理由で喧嘩をしていた―――――。
 しかも今のエリスは熱に浮かされた状態だから、余計に理解できない。
 その時、ヘルムートがきりのない会話を強制終了させるように「エリス、さあ」と手を差し伸べてきた。
 エリスはその手を取りたい衝動に駆られたけれど、でも、今は駄目だと分かっていた。このまま一緒に公爵家に帰っても、きっと何も解決しないから。
 エリス一人では、もうどうすればいいのか分からないから。
 だから。
「か、帰りたくないです……」
 か細い声で何とかそう伝える。
 するとヘルムートは、一瞬黙った後、感情を押し殺したかのような声音で言った。
「……わがままを言わないでくれ」
 眉根を寄せて、ヘルムートは歩み寄る。
(これはわがまま……?)
 そうなのかもしれない、とエリスは思った。
 公爵夫人としての立場を無視して、彼の元から離れようとしているのだから、やはり自分がわがままなのだと。
「ヘルムートさま、ごめんなさい……」
 エリスは震える唇で、涙をこらえながら言った。
「――――」
 その瞬間、ヘルムートから一切の表情が抜け落ちた。
 苛立ちも怒りも何も感じさせない静かなアメジストの双眸が、エリスを捉えて離さない。
「ヘルムート、さ……」
「話ついたな。行くぜ、お姫」
 強引に決めたレスターの片手から、パッと紙包みが消えた。代わりに彼は、上着のポケットから小さな何かを取り出して爪で弾く。
 弾いた何かは、青白い光を発してクルクルと宙で舞い始める。それは次第に形を大きくしているようだ。
 道行く人々の間から歓声が上がるのが聞こえた。見世物と勘違いしているのかもしれない。だがそれほど不思議な業だった。
 最後に光が一瞬だけ強くなって噴水のように弾けると、後には燐光を放つ、本物と同じ大きさのガラスの馬が現れていた。
 レスターは先にエリスをその背に乗せ、またいつの間にか手にしていた紙包みを彼女に持たせると、自分もひらりと跨った。鞍もちゃんと着いていて、それだけは革製になっている。
「公爵、悪いがこのまま連れて行くぜ。お姫が落ち着いたらあんたの元へちゃんと返す」



「――――――返す?」



 ヘルムートが呟くように訊き返した。
 その淡々とした様子に、エリスは得体のしれない恐ろしさを感じた。
 この人は、静かな時ほど苛烈な怒りを秘めている気がして。
 彼女の推測は正しかった。
 ヘルムートは何の感情も窺えぬ声音で、無表情に言った。
「エリス・ティアーズ」
 それは彼女の、結婚前の名だった。
「……帰りたくないと言うなら、きみはもう僕の元へ戻ってくる必要はない。―――自由にどこへでも行くといい」
 

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