父親が、先ほどのヘルムートからの問いに答えた。
「エリス本人の口から、この縁談が嫌だとは聞いていない。ただ、乗り気でないことは何となく、見ていて分かるんだ。あの子は分かりやすいからね。おそらく、初めにこの縁談を聞いた時に私や妻がとても喜んだのを見たせいで、自分の気持ちを言えなくなってしまったのだと思う」
エリスは両親への申し訳なさと、深い愛情とで胸がいっぱいになる。
滲んできた涙を拭っていると、ヘルムートの穏やかな声が聞こえてきた。
「優しい子ですからね」
それは本当に、心から思っているような温かな声音だった。
エリスは思わず顔を上げてヘルムートを見つめた。
彼は微笑んでいた。
それはびっくりするほど綺麗で、この上なく優しい表情だった。
父親もそれに驚いたように目を丸くしていたが、しばらくして躊躇いを含んだ口調でこう言った。
「もう分かっているだろうが、私が今日ここへ来たのは、君にエリスの本心を訊きだして欲しいと請うためだ。君は子供の頃からエリスと親しくしてくれていたし、親の私達に言えないようなことでも、君になら話してくれるのではないかと思ってね」
「それならば、手近にレスター・オルスコットがいるはずですが。あいつは……いや彼は、エリスの相談役なのでしょう?」
そう訊いたヘルムートの顔に、もう笑顔はなかった。
さきほどの表情は幻かと思うような、無表情に淡々とした声音である。
エリスは彼がこの頼みごとを面倒に思っているせいだと思い、もう過ぎた出来事とはいえ居た堪れなくなった。
「レスターか……。あの子は、なんというか……」
父親は困ったような、微妙な顔つきになった。
「君も知っているだろうが、あの子は私の父―――つまりエリスの祖父が契約した魔法使いでね、昔から私自身とはほとんど付き合いがないんだよ。何度か話しかけてみたことはあるんだが、私はどうも苦手とされているらしくて。挨拶をさらっと無視されたり、視界に入っただけで舌打ちされたり………まあ、そういうわけで適任だとは思うが、頼みづらくてね。ははは」
父親は穏やかに明るく笑ったが、それは苦手というより嫌われているんじゃ……とエリスは冷や汗をかきながら思った。
ヘルムートもきっと同じことを思ったのだろう。
「……そうですか」
と、どこか同情的な眼で父親を見ていた。
レスターは非常にはっきりした性格をしているので、嫌いだと思ったものには容赦がない。エリスだって、昔、まだ出会ったばかりの頃は似たような態度をとられていた。今も会話の中で無視されることや、舌打ちされることはあるけれど、昔のレスターはそれに明らかな嫌悪を含ませることがたびたびあった。
なぜなのかは、今でもはっきり分からない。出会った初めから、そんな感じだったのだ。エリスは何となく、自分の気弱なところやのん気なところが彼の気に障るのだろうと思っているが、しかし、父親の方の原因は見当もつかない。
(お父さまものんびりしたところがあるから、それが嫌なのかな……)
エリスがそんなことを思っていると、父親は再び躊躇いがちな口調で言った。
「それで、だ。実はもう一つ君に頼みがあるんだ、ヘルムート君」
「なんでしょう」
エリスの心臓が、大きく跳ねた。
恐れていた場面が訪れようとしている。
なのに、エリスの緑の瞳はヘルムートに釘付けになっていた。逸らせなかった。こんなにも真っすぐにその姿を見つめることができるのは、きっと今だけだから。
「もしエリスが今回の縁談を嫌だと言ったら、その時は、考えてみてくれないだろうか。つまり、エリスは君に懐いているし、君さえよければだね、君が――――」
父親がこれから何を言おうとしているのか、エリスには分かっている。結婚式からまもなく、父親本人から聞いたのだから。
『彼にお前のことを相談してよかった。エリス、どうかいつまでも幸せに』
『お父さま、相談って……?』
その時エリスは嫌な予感に表情を曇らせたのだが、父親はそれには気づかず、娘とは対照的に穏やかな笑顔を浮かべ、こう言った。
『お前と結婚してもらえないかと、相談したんだよ』
と。
父親は、今まさにその言葉を告げる気なのだ。
そして、頼まれた彼は………。
エリスは目を逸らしたくなったが、ぐっと堪えた。
でも、視界は涙の海で歪み始めている。
続くはずの父親の言葉を待っていると、次の瞬間、思いもよらぬことが起きた。
「伯爵」
ヘルムートが、なぜか父親の言葉を遮るように声を発したのである。
彼はこう訊いた。
「どうか、エリスを僕に頂けませんか?」