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第二章 エリスの天使

『あんな青白くて貧弱な女、好きこのんで抱くのはよほどの物好きだけだ』
『――――まあ、否定はしないがね』




 風の強い、曇天の日だった。
 髪に差していた花がいくつか花びらを落としたことにも気づかず、エリスは白いドレスを身に纏った姿で、誰かが呼びに来るまでずっとそこに立ち尽くしていた。
 いま耳にした言葉が、幻聴であることを祈りながら。


   * * *


 初めて彼に出会ったのは、九つの時だった。
 近所に住む同じ年頃の子供たちと、緑の森を背にした美しい丘に遊びに行った日のこと。
 笑いながら走り回るみんなを遠く丘の上からスケッチしていたエリスは、ふと画用紙に落ちた自分以外の影に気づき、後ろを振り返った。
 すると、そこに綺麗な顔をしたニ・三歳年上に見える男の子が立っていた。
 彼は珍しいアメジストの瞳で、じっとエリスの手元にある絵を眺めていた。
『あなたはだれ?』
 声をかけて初めて、彼はエリスを見た。
 その大人びた、冷めた眼差しにエリスは少し怯んだけれど、彼は意外に穏やかな口調でこう答えた。
『ヘルムート。きみは?』
『え…と、わたしはエリス』
 ためらいがちに名乗ると、彼はまた訊いた。
『きみはほかの子と一緒に遊ばないの?』
『……うん。わたしは、みんなを描いているほうが楽しいの』
『そう、……手がインクで真っ黒だ』
 ヘルムートは羽ペンを握るエリスの小さな手をとった。
 その手の感触にドキドキしながら見上げると、目が合った彼はふっと微笑んだ。とても綺麗な、誰もが見蕩れそうな微笑みだった。
 でも、エリスはちょっとだけ怖いと感じた。
『きみは絵の具と筆は持ってる?』
『ううん……、いつもインクで描くの』
『じゃあ、今度会ったときにあげるよ』
 言いながら、ヘルムートはエリスの手を離した。
 どうして?と問う間もなく、彼は背を向けて丘を下りて行った。




 次にヘルムートと会ったのは、エリスの父親の親友・ラングレー公爵のお屋敷だった。
 彼は公爵の嫡子だったのだ。
『やあ。これ約束だったね、あげるよ』
 そう言って、ヘルムートは本当に水彩絵の具と筆とをくれた。
『どうして?』
 今度はその理由をちゃんと問うと、彼は微笑みながら少しだけ首を傾けた。
 エリスは綺麗な微笑につい見蕩れてしまったけれど、それと同時に、やっぱり何を考えているのか分からなくて怖いと思った。
『変な子だなぁ。あげると言われたら、素直にもらっておけばいいのに。ふつう、子供は深く考えないものだろう』
『わたし、そんなに小さくないもの……』
 だから理由が知りたいの、と言うと、ヘルムートは微笑を消した。
 急に冷たい眼差しを向けられて、エリスはびくりと震えた。
『お前はじゅうぶん小さいくせに、生意気だね』
 機嫌を損ねてしまった。
 エリスは泣きそうになりながら、『ごめんなさい』と小さく告げてうつむいた。
 一方、ヘルムートはそれ以上怒らず、また自分のあげた贈り物を奪い返したりもしなかった。
 少しのあいだ沈黙が続き、エリスが涙目でそっと顔を上げると、彼はただ呆れたような、困ったような顔をしていた。
 目が合うと、彼は『……泣くなよ』とエリスの栗色の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
 乱暴な仕草だったけれど、温かい手のひらにエリスは不思議とほっとした。
 それから彼は、贈り物の理由をぽつりと告げた。
『僕がわけもなく、きみにそうしたいと思っただけだ』
 ――――と。



 それからヘルムートは、なぜか会うたびにエリスに構った。
『いまは何を描いてるの?小さい画家さん』
 父親に同行して遊びに来るヘルムートは、エリスの自室に現れてはそう尋ねた。
 自分が画材を与えたからか、彼の関心はエリス本人よりも、その絵にあるようだった。
 そんなある日、描きかけの絵を見たヘルムートは不思議そうな顔で訊いた。
『これ誰?』
 その絵には白い猫を抱いた、ヘルムートと同じ年頃の男の子が描かれていた。
『レスターとルイーゼです』
 いくらか成長したエリスは、年上のヘルムートに対して敬語で話すようになっていた。
『レスターってどこの誰?』
『ときどき遊んでくれる友達です。湖の近くに物知りなおじいさまと暮らしていて、とても頭がいいんです。ルイーゼはおじいさまの猫で……』
『そう、よかったね。寝入ってばかりのお前には友達なんていないのかと思ってた』
 ヘルムートはにっこり微笑んでいた。
 エリスは、その作りものの微笑が苦手だった。おまけに、そのときは何故だか怒っているようにも見えて、びくびくした。
 

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