ヘルムートがエリスの絵を見て気分を害したのは、後にも先にもこの一度きりだった。
でも、なぜなのかは今だにわからない。その時もエリスは問いかけた。
『ヘルムートさま……?あの、どうして怒っているんですか?』
『それ、その言葉遣い。うっとうしいから止めて』
がーん、とエリスはショックを受けた。
ヘルムートに面と向かってきついことを言われるのはよくあることだったが、慣れるものでもなく、そのたびにエリスは涙を浮かべた。
『お前はホントに泣き虫だね』
呆れたように、泣かせた張本人は言った。
『ごめんなさ……』
ほろほろと泣き止まずにいると、ヘルムートはため息と共にエリスの頭に手を乗せて、その栗色の髪がぐしゃぐしゃになるのも構わず撫でまわした。
その涙が枯れたころ、エリスは小さなくしゃみをした。季節は秋の中頃だったので、室内はいつの間にかかなり冷え込んでいた。
その日、朝から熱っぽかったエリスはベッドに横になっていたのだが、ヘルムートの前ではずっと起き上がっていた。それがいけなかったのだろう、気づいたときにはすでに身体は冷えきっていて、肩が震えていた。
ヘルムートもそれに気づいたらしく、またため息をついた。馬鹿だな、とでも思ったのだろう。彼はエリスの肩を抱き寄せて、しばらくその状態で自分の熱を分け与えてくれた。おまけに、よしよしと後ろ頭を優しく撫でられた。
びっくりしすぎてエリスは声も出なかった。
そしてふと、この人は意地悪なのか優しいのか、どっちなのだろうと思った。
自分をすっぽりと包み込むヘルムートの身体は、温かくて心地良かった。にもかかわらず、彼がベッドに横たわらせてくれるまで、いや、横になった後もずっとエリスの胸は落ち着かずにドキドキしていた。
ヘルムートはいつも微笑みを絶やさなかった。今と変わらず、まるで絵画の中の天使さまのように、ふんわりと優しげに微笑み、男女問わず多くの人を魅了していた。
でも、なぜだかエリスに構うときのヘルムートはちょっと違った。見せてくれる多くが、ほんの少し意地悪そうな微笑みだったのだ。
不思議だったけれど、むしろその笑顔の方がエリスには素敵に見えた。
それに、彼は本当に天使のような、心からの微笑みを見せてくれる時があって、そんな時エリスはとても嬉しくて、決まってドキドキしながら見惚れた。
そして、いつしか思うようになったのだ。皆に向けられるあの人形のように感情の窺えない笑顔よりも、自分に見せてくれる表情こそが、彼の素顔ではないだろうかと。
それはエリスの思い上がりかもしれなかったけれど、でも、心からの微笑みを向けてくれるとき、彼はこの上もなく優しい目をしていた。
季節がいくつか移り変わっても、あいかわらずヘルムートはエリスの絵を眺めにやって来た。時には父親抜きで来ることさえあった。
エリスにはその頃一つだけヘルムートに内緒で描いている絵があって、彼が前触れもなく現れると急いでそれを隠していた。
そして、その絵のことは未だに気づかれていない。
『きみの絵はいいね、描き手と同じくらい素直だ』
ヘルムートはよくそう言った。
エリスがせっせと描く斜め後ろで、彼はいつも飽きもせず静かにその手が動くさまを眺めていた。
それは穏やかな時間だった。
そんな風に、二人の年月は過ぎて行った。