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第九章 雨の中

 そうして、再び静寂が訪れた。
 次にそれを破ったのは、ヘルムートだった。
「―――で?」
「え?」
 急に問いかけられて、エリスは緊張した。
 腕を組んで立っているヘルムートは、そのアメジストの瞳に冷たい輝きを宿して言う。
「何しに来たの」
「……」
「あのとき聞こえなかったのかな。僕はきみに戻ってくる必要はないと言った」
 顔が、はっきりと強張るのを感じた。
「聞こえなかったの」
「き、こえ……ました」
 二度訊かれて、ようやくエリスは返事ができた。
 言葉が喉に詰まったみたいに苦しい。
 水の中にいるみたいだ。
 この緊張に負けてしまいそうになる。
 つい昔からのくせで、またレスターに助けを求めてしまいたくなった。
 でも、もう自分だけで闘わなくてはいけないことだ。
 そうしなければ、意味のないことなのだ。
「でも、わたし……、どうしても、ヘルムートさまとお話したくて……」
 そう言ったら、彼はかすかに笑った。
 けれど、それはエリスの好きな優しい微笑みではなかった。
 あざけるような、冷たいものだった。
「ああ、あいつが言っていたからね。落ち着いたらきみを返すとか。――――ふざけた奴だ」
 レスターが悪いわけではない。わがままを言って迷惑をかけたのは自分なのだから、彼が悪く言われるのは違う。
 エリスはそう思った。
 でも反論できなかった。
 ヘルムートが苛立っているのが分かって、怖気づいてしまって、口が動かなかった。
「それで?あいつはどうしたの」
 姿が見えないから、ヘルムートは訝しく思ったようだ。
「きみをここまで連れてきて、帰ったのか?」
 言葉の代わりに小さく頷くと、彼は窓のほうに視線をやり、舌打ちした。
 あきらかに怒っている様子に、エリスの手はまたいつの間にか震えていた。
「卑怯な奴だな。殴らせもしない気か?……まぁいい、どうせ用件が片付いた頃にまたきみを引き取りにくるんだろうから」
 独り言のように呟いた後、ヘルムートはエリスに視線を戻して続けた。
「それにしても、他人に興味なんかないくせに、相変わらずきみにだけは甲斐甲斐しいんだな。――――結局、なんだかんだ言って、あいつも昔からきみのことを」
「れ、レスター、は」
 いつもならありえないことだが、エリスは一生けんめい言葉をしぼり出して、ヘルムートの言葉を遮った。
 彼を見上げて言う。
「レスターは、悪くないです。わたしが、迷惑かけただけで……だから、あの、悪く思わないで、くださ…い…」
 言葉が小さくなっていくにつれ、エリスの視線も下がっていく。
 ヘルムートの眼光が、一段と鋭くなったからだ。
「……へぇ、そう」
 口調こそ穏やかだが、険悪な感情は隠されておらず、身を小さくして俯いていても、その視線は容赦なく突き刺さる。
「迷惑かけただけ、か。―――話がしたいっていうのは、そんなこと?あれを悪く思うな、って、きみはそんな無駄なことを言うためにわざわざ戻ってきたの」
「ちが……あ、違わないです、けど、あの」
 レスターのことは悪く思わないでほしい。それも、もちろん言っておかなくてはいけないことだ。
 でも、それを言うためだけに戻ってきたわけではないのだ。
「わたし、今までのこと……、お詫びと、お礼を言いたくて……」
 いちばん大事な自分の想いを伝える前に、まずはそれからだと思いながら言った。
 けれど、彼はいっそうかたい声で返した。
「いらないよ、そんな言葉」
「―――だ、だけど」
 エリスが思わず視線を上げると、凍てつくような冷たい眼差しとぶつかった。
「ずいぶんくだらない用件で来たみたいだけど、話がそれだけなら帰ってくれないか」
 帰れ、という一言は、エリスの胸に深く突き刺さった。

『ここはきみの家でもある』
『僕はきみの家族になったんだから』

 前に、彼はそう言ってくれた。
 ――――でも、もう違う。
 今はそんなふうに思ってくれていないのだ。
 ここは、彼の家であって、自分の家ではない。
 帰ることを許された場所ではなくなってしまったのだ。
 ヘルムートは、エリスの反応など気に留めず、視線を外してこう続けた。
「あと……ついでに言っておくけど―――豊穣祭でモメていたところを知り合いに見られたらしくてね。社交界の一部の噂では、もう僕たちは離縁したことになっている」
 窓の外を見つめながら、彼はなんでもないことのように冷静な口調で話した。
「セロンが王都のはずれにあるといっても、いずれはどこからか、きみのご両親の耳にも入るだろう。だけど、その前に離縁のことは僕から手紙で伝えるつもりでいる。本当は会って話すべきなんだが、今はここを離れられなくてね。きみは―――きみのことだから、まだ自分では事情を話せていないんだろう?」
 そこで彼の声が、いくぶんやわらくなった気がした。
「……大丈夫、きみの悪いようにはしない。離縁の原因は僕の浮気癖だと、ご両親や他の誰かに訊かれたら、そう答えるといい。ただ―――手続きはもう少し待ってくれ。今は神殿まで行く暇がないんだ。代理じゃ受理されないというし。時間が出来たら必ず……」
「や……」
 エリスが呟くと、ヘルムートは眉をひそめた。
「……きみの気持ちは分かるけど、少しくらい我慢してくれ。別に未練がましいことをするつもりは」
「や、です」
 エリスは彼の言葉をまたしても遮り、のろのろと立ち上がっていた。
 瞳に涙をためて、首を横に振る。
「り、離縁なんて、しな…い…で……」
 それは消え入るような声だった。
 でも、静かな部屋の中だから、ヘルムートにはちゃんと届いたようだ。ますます訝しげな顔をされる。
 エリスが駄々をこねるなんて思っていなかったのだろう。 
 自分でもわがままを言っていることは重々承知だった。
 だけど、言わずにはいられなかった。
「おねがい、です……」
「………」
 ヘルムートは眉をひそめたまま、エリスをじっと見つめた。
 まるで得体の知れない、変な生き物を見るみたいに。
 その視線は、やさしいものではなかった。
 この人は、いつだって、やさしい目を向けてくれていたのに。子供の頃も、結婚して、関係がうまくいかなくなってからも。傍にいれば、ちゃんと気遣ってくれていた。理解しようとしてくれていた。自分が気づかなかっただけで、知らないうちにも心を砕いてくれていた。
 それが今、こんなふうに相容れない何かを見るような目で見られて、ようやく身にしみて分かった。
 ずっとずっと、この人はやさしかった。
 なのに、馬鹿な自分は、結婚式の日のあの言葉ひとつで、この人に嫌われていると思ってしまった。もっと酷いように思われているかもしれないと疑ってしまった。
 そうではなかったのに―――――。
「はなれたく、ないです……。わたし……、わたしは、ヘルムートさまが、すきだから」
 ヘルムートが目を瞠った。
 どんな感情を抱いたのかは読み取れない。
 でも、とても驚いていることだけは分かった。
 エリスは震える声で懸命に繰り返した。
「だいすきです、ヘルムートさま……」
 いつのまにか、また涙が頬を伝っていて、ぽたりと絨毯に染みをつくった。










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