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第十章 世界で一番の贈りもの

 そこは見渡す限り、色とりどりの花が咲き乱れていた。
 見上げれば抜けるような青空が広がり、穏やかな風が、一本だけ立っている大きな木の枝を優しく揺らしていた。
 エリスは座り込んだまま、その見知らぬ景色をしばらくじっと眺めていたが、そこへ落ち着いた女性の声がかけられた。
「あらまぁ、いやだ。このコったら、なんでこんなところにいるの?困ったさんねぇ」
 振り返ると、大きな岩の上に一人の女性が足を組んで座っていた。
 二十代後半だろうか。とても綺麗な人だった。身体の線がはっきりと分かる、裾の長い白のドレスを身に纏っており、そこからのぞく足首は細くしなやかだった。
「だれ……?」
 エリスが訊ねると、女性は片眉を上げた。
「ずいぶん薄情だこと。けっこう親しくしていたのに。もう忘れてしまったの?」
「えっ?」
 そんなことを言われても、まるで見覚えがないので困ってしまう。どこで会ったのだろう。
 女性の口の端が上がった。
 どこか皮肉めいた微笑みは、ちょっと意地悪そうで、誰かに似ている気がするのだけれど、それが誰なのか思い出すことができない。
「ねぇちょっと、本気でわからないの?」
「ご、ごめんなさい……」
 素直に認めて謝ると、女性ははぁぁ〜と深いため息を吐いた。
「じゃあ、これでも分からない?」
 そう言って、彼女は身体の横に置いていた手を掲げて見せた。
 すると何かがキラリと光り、エリスは一瞬目を細める。
 眩しさに慣れて、よくよく見ると、その光を反射する何かは青みがかった透明な球だった。ブレスレットの鎖の先で、かすかに揺らめいている。
「あ……」
 それはレスターの家で見たものだ。正確には、アレイスターおじいさまの部屋にあった、猫の彫られた小箱の中から転がり出たもの。月明かりに透かすと湖面のように煌めいて綺麗だった。
 あのときエリスは、きらきらしたものが好きだった白猫のルイーゼのものではないかと思ったのだが――、なぜそれと同じものを目の前の女性が身につけているのだろう。
 ぽかんとして眺めていると、女性は「ええ?まだわからない?あいかわらずニブい子ねぇ!」と呆れたような声を上げた。
「そう意地悪を言うものではないよ、ルイーゼ」
 ふいに響いた声は、若い男性の声だった。
 エリスはぱちくりと瞬きして、ルイーゼと呼ばれた女性を見上げ、それから反対側から歩いてきた男性を見た。
「レスター……?」
 口に出してみたけれど、でも、なんだか違う。
 面立ちはよく似ているけれど、レスターより穏やかな眼をしているし、髪が長い。後ろで一つにまとめているのが、しっぽのようだ。
「久しぶりだね」
 近くまでやって来たその人は、にっこりと優しく微笑んだ。
 その表情を見た瞬間、エリスの脳裏に一人のよく知る人の姿が蘇えった。
「……アレイスターおじいさま……?」
「そうだよ」
 まさかと思いながら言ってみたのに、それは当たっていたらしい。
「おじいさま、若い……」
「ここでは、なぜか若くなってしまうみたいでね」 
 なんだかよく分からないけど、すごいものを見たとエリスが思っていると、先ほどルイーゼと呼ばれた女性がぷりぷり怒りながら言った。
「コラ、なんでアレイスターは分かって、あたしは分からないの?失礼な子ねぇ!あんなに遊んであげたのに」
「無茶を言うものじゃないよ、ルイーゼ。今のきみと、生きていた頃のきみを一致させられる人間のほうが珍しい」
「でもズルイ!アレイスターめ!」
「め、って言われてもね……」
 そんなやり取りを聞きながら、エリスは呟いた。 
「……ルイーゼ?」
「なによ」
 女性はふくれ面でエリスを見下ろした。
「大人げないよ、ルイーゼ」
「黙らっしゃい、アレイスター」
 どこか偉そうな態度に、つんと澄ました横顔。
 頬にかかる、雪のように白い髪。
「猫の、ルイーゼ……?」
 エリスはびっくりしながら訊いてみた。  
 そうしたら、女性はニマリと笑った。猫のルイーゼの笑い方とおんなじだった。
「やっと分かったの?」
「……で、でも、猫じゃないよ?」
 ちょっと混乱しながら訊くと、ルイーゼはふふん、と笑いながら言う。
「言っておくけど、あたしはもともと人間よ、伯爵家のお嬢ちゃん。猫になっていたのは、ちょっとここで語るには長くて複雑な大人の事情があってのことだったのよ」
「うっかり魔法で強力な呪いをかけられて、そのかけた相手にとんずらされて、ずっと解けなかったのだよ」
「ちょっとアレイスター!!」
「一行で足りる理由じゃないか」
 呆れたような口調でおじいさまが言うと、ルイーゼはまたぷりぷりと怒った。
「そんなカッコ悪い理由言わないでよ!天才魔法使いと呼ばれたあたしの唯一にして最大の汚点なのよ!夫なら隠してよ!」
「レスターが話してしまえば、いずれ分かったことだよ」
「あの子には何度も口止めしていたから大丈夫なの!アレイスターのばか!」
 なんだか、とても綺麗な人なのに、ずいぶんと子供っぽい人だ。
 でも思い返せば、ルイーゼはこんな感じだった。
 無邪気で、偉そうで、すねたり、怒ったり、ご機嫌な時はにゃふーんと歌をうたってみたり。
 猫なのに、猫じゃないみたいだった。
「ルイーゼ、人間だったんだぁ……」
 とても腑に落ちた。
 ただ、今の会話の中でひとつだけ気になったことがあって、エリスは首をかしげながら訊いてみた。
「あの、でも『夫』って?」
 すると、ルイーゼは得意げに言った。
「あたしとアレイスターは夫婦なのよ」
「えっ?」
 夫婦?
 エリスは瞬きしながら、アレイスターおじいさまとルイーゼとを交互に見比べた。
「……じゃあ……、ルイーゼは、レスターの」
「おばあさんということになるね」
 そう言ったのは、アレイスターおじいさまで。
「やめて!おばあさんなんて!一気に年食ったみたい!あたし『ばあさん』なんて呼ばれたくないわ!」
 ルイーゼはぽかすかアレイスターおじいさまの背中を叩いた。
「痛いよ、ルイーゼ。というか、実際それなりの年じゃないか。だいだい孫に『おばあさん』と呼ばれて何が嫌なんだい」
「孫だろうがひ孫だろうが、そんな呼び方認めません!」
「きみは本当に面倒だなぁ」
「そんなのをお嫁にしたのはあなたでしょ!文句言わない!」
「はいはい」
 変わった夫婦だなぁ、とエリスは呆気にとられつつ思う。
 でも、とても仲が良くて。
(うらやましい……)
 そう思ったら、胸がちくんと痛んだ。
 そして、どこからか、雨音が聞こえた気がしたのだけれど。
「さて、それで」
 と、ルイーゼが言ったので、エリスの気はそちらに向いた。
 なんだかここでは、頭がぼんやりして、多くのことをいっぺんに考えることも、深く考えることもできなかった。
 そんなエリスに、ルイーゼは問いかけた。
「お嬢ちゃん、あなた今、自分がどこにいるか分かっているの?」

 









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