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第十章 世界で一番の贈りもの

 頭を打った?
 エリスはここに来る直前の記憶を辿ってみた。
 でも、雨で濡れた階段で足を滑らせたことしか思い出せなかった。なんだかまだ頭がぼんやりしている。
 エリスはとりあえずお礼を言った。
「ありがとう、ルイーゼ……。あの、でも、ごめんなさい。レスターのための物だったのに」
「まぁ別にいいのよ、遺品整理もろくにしないあの子が悪いんだから。あたしのものも、アレイスターのものも、ほとんどそのままにして」
 そこへ、クマがうんざりしたように声をかけた。
「オイ、もういい加減にしてくれ。落ちる、涙が。大洪水になっちまう」
「はいはい。こうるさいクマね」
 クマのにっこり笑顔の下からは舌打ちが聞こえてきたけれど、ルイーゼは平然と言った。
「あともうちょっとだけ待って。ちょうどいい機会だから、大事なことを言っておかなくちゃ。忘れるところだったわ」
「なげぇんだよ、別れが!」
「悪いね、妻が」
 謝ったのは、ルイーゼではなくアレイスターおじいさまだった。
 彼は穏やかに微笑む。
「いざとなったら、大きな柄杓(ひしゃく)で受け止めるとしよう」
「受け止められるかぁ?ありゃあ、けっこうな大きさだぜ」
「大丈夫、大丈夫」
 おかしな会話がなされる横で、ルイーゼは切り出した。
「さあ、いいこと、お嬢ちゃん。レスターの秘密を教えてあげましょう」
「えっ?」
 突然の言葉に驚くエリスに、彼女は注意をつけ加えた。
「ただし、元の世界に戻っても、本人に確かめてはいけないわ。ああいう性格だから、そんなことをすればどこかに姿を消してしまうかもしれない」
 それはいやだ。
 エリスはこくこくと頷いてから、「あ……でも」とルイーゼを見た。
「なぁに」
「わたし、聞けない……。勝手に秘密を知るのは、よくないもの」
 生真面目に言うエリスに、ルイーゼは微笑んだ。
「そうね。でも、これはあなたにも関係していることだから、知っておいてもらいたいのよ」
「わたしにも……?」
 そんな風に言われれば、余計気になる。
「そう。でも、あなたはこれを知っても、レスターが自分から口にするまでは、死ぬまで心に秘めておくこと。約束できる?」
「う、うん。……でも、本当にわたしが聞いてもいいの……?」
「いいのよ」
 ルイーゼが自信満々に言うので、エリスは背中を押された気分になって、まだためらいを持ちながらも頷いてしまった。
「や、約束します」
 ルイーゼはにこりと笑った。
「それじゃ、耳をお貸しなさいな」
 その通りにすると、ルイーゼはそっと顔を寄せて囁いた。
「レスター・オルスコットは、本当はね、あなたの……」
 
 ――――ああ、そうだったんだ。

 エリスはとても驚いた。
 でも、しょせん夢の中だと心のどこかで気づいていたからだろうか、妙にストンとそれを受け入れている自分がいた。
「あら、あまり驚かないのね?」
 顔を離したルイーゼが、意外そうに言った。
 エリスは、ひとつ瞬きしてから微笑んだ。
 ――――そう、これは夢。夢なのだ。
 だから、何も考えずに素直に喜べばいい。
「だって……あのね。わたし、そうだったらいいなって……子供の頃ときどき思っていたから、驚くより、うれしい気持ちが大きいの」
「そうなの?」
 ルイーゼが満足そうに笑った。
 いつの間にか、クマとの話を終えてこちらを見ていたアレイスターおじいさまも。
 もう会えないと思っていた二人が、傍にいて笑っている。
 ああ、なんて幸せな夢だろう。
 叶うことなら、レスターにも見せてあげたい……これは、そんな素敵な夢だ。
 でも、いま聞いた内緒話だけは自分の胸の内にしまっておかなくては。
 エリスは、これはただの夢だと思いながらもそう思った。
 だって、夢だろうが現実だろうが、ルイーゼの内緒話の中身をレスターが知ったら、きっと怒るに違いない。怒って、否定して、それで、背を向けて、もう二度と振り返ってはくれなくなる。………あの、いつかの雪の日のように。転んだって引き返してきてはくれないだろう。そんな気がするから。
 だから、目が覚めても、この内緒話は内緒のまま。
 レスターから、何も言われない限り。
「よし、話はすんだな。今度こそ行こう」
 クマがそう言って、繋いだままだったエリスの手を引いて歩き出したので、慌ててお別れのあいさつをした。
「あ、あの、二人とも、会えて嬉しかったです。さよなら」
「さようなら、おひいさま。孫によろしく伝えておくれ」
「さよなら、お嬢ちゃん。幸せにね」
 本当は、まだ二人と話していたかったけれど。
 自分がこのままいては、あの空に見える大きな雫が落ちてくるそうなので、居座るわけにはいかない。
 それに、心配してくれている人が待っている。
(帰らなくちゃ)
 不安な気持ちは、ざわざわと胸の中で騒いでいるけれど。
 それでもクマに合わせて歩き出した。
「おひいさま」
 背中に声をかけられて、思わず振り返ろうとしたら、それより早くクマが言った。
「振り返るな。この道を歩き出したら、もう振り返っちゃいけねぇんだ」
「ああ、そうだったね。おひいさま、番人の言う通り、振り返らずに聞いておくれ」
 アレイスターおじいさまは、穏やかな口調で続けた。
「おひいさまには感謝しているよ。私たちに、レスターに、とても良い贈りものをしてくれたから」
 贈りものとは、何のことだろう。
 レスターには何度かケーキやお菓子を贈ったことがあるけれど、でも、今さらそのお礼を言われるのはおかしな話だ。
 エリスは後ろを振り返りたいのを我慢しながら、どこまでも続く道の先を見つめた。
「本当に感謝している。きみはあの子に世界で一番すばらしい贈りものをくれた」
 アレイスターおじいさまは、遠くなった声で繰り返した。
「ありがとう――――……」
 エリスには、贈りものが何を指すのか分からなかった。
 やがて、誰の声も聞こえなくなり、ただひたすらクマと手を繋いで歩くことになると、エリスは隣を見上げた。
「贈りものって、どれのことか、知ってる……?」
 ついさっき初めて会ったばかりの相手に尋ねることではないけれど、なんとなく、このクマはすべてのあらゆることを知っている気がした。
 はたして、クマは言った。
「そりゃあ、おまえ。うさぎのことさ」
「うさぎ……ニコ?」
 うさぎと聞いたら、真っ先にニコのことが思い出された。
 クマは頷く。そうすると、頭と胴体のあいだの肌色が、さらに見えた。やはり明らかに人間の首だったけれど、エリスはもう「人間?」などと確かめたりはしなかった。
「ありゃあ、特別な奴だから、俺もよく覚えてる。まだ上と下とを行ったり来たりする役目に就いていたときだ。連れて行こうとした矢先に、おまえにとられちまった。びっくりしたねぇ、あんときは」
「……?」
 このクマから、何かを取った覚えなんてないのだけれど。
 エリスには一つも理解できなかった。
「何のことか分らなけりゃ、それでいいさ。人間には、あのルイーゼやアレイスターのように特別な力を持つ連中がいるが、嬢ちゃんはなかでも特殊だね」
「わたし、あの、何もできないけど……」
 確かにレスターには、魔法使いの素質がある、みたいなことを言われた覚えがあるけれど、それらしき力なんて発揮したことはない。
「それも知らなきゃそれでいいさ」
 クマはあっさりそう言った。
 それから、また黙って白い石の敷き詰められた舗道を、手を繋いで歩いていく。果ては見えなかった。
 それにしても、ずいぶん歩いたようなのに、ひ弱な自分にしては全然疲れていない。
 きっと夢の中だからだろう。
 エリスはそう思いながら、またクマに話しかけた。
「元の世界に戻ったら、わたし、二度とここへは来られない?」
「いや?今度は本当に死んだときに来られるぜ。そんときは、俺の仲間が迎えに行く」
「あの、わたし……会いたい人がいるんだけど、そのときには会えるかな?」
 そう訊いたら、クマはこちらを見下ろした。
「誰だい。アレイスターとルイーゼ?」
「ううん……あ、二人にもまた会いたいけど、他の人のことなの。わたしの、おじいさま」
「ああ、ちょっと前まで、あの二人と一緒に下を眺めてたな。だいぶ先にこっちに来ていた奥さんが呼びかけて、それでやっと奥のほうに引っ越した。あの人に会いたいのか」
「うん。おばあさまにもお会いしたいけど……、おじいさまには、特に。お聞きしたいことがあって」
 クマはふうん、と呟いた。
「会えるのは、きっとずっと先だぜ。代わりに俺がいま聞いてやろう。言ってみな」
 促されたエリスは、一瞬どうしようかと迷った。
 でも、やはりこの相手にはどんな話も通じそうな気がして、口を開く。
「あのね。――――友達の、レスターのことなの。レスターは、わたしの相談役になって良いことがあったのかなって、おじいさまに訊いてみたくて」
 それはレスターと出会ったばかりの頃だった。
 祖父は、いつか彼にもその苦労に見合うだけの利益がもたらされるだろう、と言った。
 とうてい今の段階ではそうなっていると思えないので、エリスは心配だった。ずっと迷惑をかけっぱなしだから。レスターにどうか良いことがありますように、と願わずにはいられない。
 しょんぼりしていると、クマは声を上げて笑った。
「こんなときに変なことを心配するもんだ。――――ようし、教えてやろう。答えは、さっきアレイスターが言っていた」
「え?」
「十分すぎる対価さ。おまえは普通の方法ではないやり方で、レスター・オルスコットにニコという家族を与えた。アレイスターやルイーゼ、おまえの祖父はレスターの行く末をずいぶん心配していたものだが、思いがけない形でその問題は解決された。レスターは彼らがいなくとも、おまえが結婚して傍から離れても、独りぼっちにならずにすんだ。これ以上の見返りはない」
 クマは言い終わると同時に、すっと正面を指差した。
「ああ、道のはじまりとおわりが見えるぞ。あそこから帰るといい」
 見れば、いつの間にか舗道の終わりに近づいていた。
 行き止まりなど見えないと思っていたのに。
 そして、そこから先は、白い光に包まれていた。
 エリスはクマに背中を軽く押されて、その光の中へと足を踏み入れる。
 振り返るなという言葉を思い出して、前を見たまま言った。
「ありがとう、クマさん。あなたは……」
 何者?という質問は、最後まで続けられなかった。
 エリスの身体は、光の中をゆっくりと下降していったから。
 それで、振り返るのではなく見上げてみると、真上にクマが浮いていた。
 ひらひら手を振る彼の背中には、とても綺麗な、真っ白で立派な翼がはためいていた。









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