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第十章 世界で一番の贈りもの

 視界に映るヘルムートの姿が揺らめいた。
 瞬きするのと同時に、大粒の涙が膝の上に落ちていく。
「……きらわないで……」
 無意識のうちに、エリスは泣き声でそう言っていた。
「嫌いに、ならないで……」
 ヘルムートが、驚いた様子で目を見開く。
 エリスはそれを見て、すぐに後悔した。
 たった一言で、彼の自分への嫌悪が変わるはずもないのに。今はただ、弱っているから気遣ってくれているだけなのに、もう怒っているようには見えないからといって、憎まれているようには見えないからといって、なんて馬鹿なことを口走ってしまったのだろう。
『好きだのなんだのと、今さら言われても虫唾が走る』
 彼は、自分にそう言ったのに。
 冷たい表情で、蔑むような声で。
 ああまで決定的なことを言われておきながら、まだそんな願いごとを口にしてしまうなんて、どこまで愚かなのだろう。きっと彼もそう思ったはずだ。
「……っ、ごめんなさい……」
 エリスは震える小さな声で失言を詫び、ヘルムートの視線から逃れるために再び膝に顔をうずめた。
 恥ずかしい。
 未練がましくて、みっともない……。
 ちゃんと彼とお別れをしようと決めたのに。
 うつむいたまま、もう一度口を開いてみる。
 でも、今度はまるで声にならない。
 ――――今までごめんなさい。
 ――――たくさん優しくしてくれて、ありがとうございました。
 ――――さようなら。
 伝えるべき言葉は、いつものようにちゃんと自分の中に用意されているのに、もう本当に、今度こそ彼と終わりになってしまうのだと思うとなかなか言えなかった。
 そうしないと、自分がいなくならないと、彼は幸せになれないのだと、胸が苦しいほど分かっているのに、臆病者ゆえに口を閉ざしてしまう。
 これではいつかと同じだ。
 彼の心が分からなくて、怖くて、なにも言えなくなって、言葉を発せなくなったときと。
 けれど、あのときのように自然と声が戻るのを待つわけにはいかない。彼と話せる機会なんて、もう巡ってこないかもしれないのだから。いま言うしかないのだ。
 唇を噛み締め、覚悟を決める。
 もう一度、顔を上げかけた時だった。
「違う……、僕は」
 そう苦しげに呟いたヘルムートによって、エリスは身体を引き寄せられた。
「ぁ……っ」
 体勢が崩れて、思わず彼の胸元にすがりつく。
 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
 頭の中が混乱したまま、その胸から慌てて手を離そうとすると、それより早くしっかりと抱きしめられる。
(どう、して……?)
 彼の手のひらの温もりや、指の感触が、寝間着越しにはっきりと伝わってくる。頬に当たる、その胸のたくましさも。互いに薄着だから、豊穣祭のときに抱きしめられた時よりも、明確に彼の体つきや体温を感じる。
 きっと自分の貧相な体つきも、彼に思いきり伝わってしまっているだろう。
「や……」
 そう思ったら恥ずかしさに耐え切れなくなって、エリスは涙目でヘルムートの胸をなんとか押しのけようとした。
 すると、彼はようやく言葉を発した。
「逃げないで」
 声の近さに、エリスの華奢な身体はびくりと震えた。
 その細い肩口に顔を寄せ、彼は後悔を滲ませながら続ける。
「きみが謝ることなんか何もない。悪いのは、僕のほうだ。酷いことを言って、きみを傷つけた。本当に……、ごめん……」
「え……?」
 エリスは思いもよらぬ言葉をかけられて、逃げることも忘れて固まった。
 どうして彼が謝るのだろう。
 だって、悪いのは彼にとっての厄介者でしかなかった自分のほうだ。彼から貰っていた多くの優しさにも気づかず、たった一言がきっかけで彼を信じられなくなって、せっかく結婚してもらえたのに、ちゃんとした奥さんになれなかった自分のほうなのだ。
 確かに彼の言葉には酷く傷つき、思い出すと心が押し潰されそうになるけれど、自分はそうされて当然のことをしている。ぜんぶ自分の自業自得だ。
 だから、彼のほうから謝ってもらう必要なんてどこにもないのに。
 エリスが戸惑って何も言えずにいると、彼は言葉を続けた。
「僕はきみを嫌いなんかじゃない。きみを好きじゃなくなったことなんか、本当は、一度もない……。嫌わないで、って、そう言いたかったのは僕のほうだ」
「……ヘルムート、さま……?」
 彼は一体どうしてしまったのだろう。
 エリスは自分に都合の良い夢を見ているのではないかと、自分自身を疑った。
 倒れる前に告げられた言葉が、とられた態度があまりにも悲しかったから、現実に戻れなくて、夢を見続けているのかもしれない――――。
 だけど、自分を抱きしめる彼の温もりが、腕の力強さが、そうではないのだと告げてくる。これはちゃんと現実なのだと。
(夢じゃないなら……、ほんとうに……?) 
 彼はまだ、子供の頃のように自分を普通に好きでいてくれているのだろうか。自分は嫌われてなんか、いないのだろうか。
 でも、もう好きじゃないと、あのとき彼はそう言った。
 冷たい眼差しに射抜かれた。
 あれこそが彼の本心だとは思えても、今こうして告げられている言葉のほうが真実だと簡単に思うことはできなかった。たとえそうであってほしいと願っていても、信じられない。
 きっと、たぶん、今の言葉は自分を泣きやませるための、その場限りの彼の嘘なのだ。
 やさしくて残酷な嘘なのだ。
 抱きしめてくれているのも、小さな子供みたいにあやすため。
 エリスはそう思い込み、じわりと滲んできた涙を瞬きでごまかした。
 彼をまた困らせてしまっているから、嘘までつかせてしまっているから、もう泣いては駄目だ。早く泣き止んで、大丈夫だと示して離してもらわなくては。
 そう考えながら、至近距離にある蜂蜜色の頭に視線を向けた。
 いつもはちゃんと整えられている髪が、今は少し乱れている。自分を捜すために動いてくれたせいだろうか、とエリスは思った。
 そのとき、ふいに燭台の明かりのもとで泣いている彼の姿が脳裏に浮かんだ。
(あれは……)
 現実だったのだろうか。
 でも、――――彼は強い人だ。
 簡単に泣いたりはしない。
 泣いてもらえるほど、自分は想われてもいない。
 あれこそ都合の良い夢だったのだろう。
 エリスが涙目のまま見つめていると、ヘルムートがゆっくりと顔を上げた。切なげに揺れるアメジストの瞳と視線が交わり、鼓動が高鳴る。
(ヘルムートさま……?)
 なぜそんな、泣きそうな眼をしているのだろう。
 まるで夢の中で見たときのように――――。








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