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第十一章 天使の落下

 エリスは思わぬ再会に困惑した。
 それはかつて自分に求婚してきた人だった。
 ヘルムートとの結婚で、知らぬ間に話が流れていて、それっきり会うこともなかった人。
「さきほどエントランスであなたをお見かけしましてね。ぜひごあいさつをと」
「わ、わざわざありがとうございます」
 男はエリスの隣に腰掛けてきた。にこやかな笑顔を浮かべたままの彼に、抗う間もなく手をとられ、その甲にキスを受けた。
「ずいぶんお綺麗になっていらっしゃったので、驚きました」
 握られたままの手が気になったけれど、振り払うのも失礼な気がして。
 その上、どう答えていいのかもわからなかった。
 そんなエリスの様子に、彼はくすくすと笑った。
「あなたはあいかわらず大人しくてうぶな方ですね。――だから簡単に言いなりにできると思って求婚したのに、あんな邪魔が入るとは今思い出しても腹立たしい」
「え……?」
 不穏な言葉とともに、エリスは長椅子の上に押し倒されていた。
「きゃ……っ」
「聞き及んでいますよ、旦那様とは上手くいっていないと。あの男は私を脅して強引にあなたを奪ったくせに、ずいぶんな扱いをしているようだ。浮気などされて、さぞおつらかったでしょう。――でももう安心さない。私が慰めてさしあげますから」
 笑顔のままの男が怖かった。
 覆いかぶさられ、両手首を押さえられた。
「や……っ」
 エリスは怯えながら抗おうとしたが、震える身体はたやすく抑え込まれてしまう。男はおかしそうに笑っていた。
「大人しく身をゆだねていなさい。悪いようにはしませんよ」
「いや……!」
「あなたが私のものになったと知ったら、あの男はどういう顔をするでしょうね。気位の高い奴のことだ。いくら放置している妻であっても悔しがるに違いない」
 恐怖のあまり、エリスのまなじりから涙が流れた。男はそれにくちづける。
(やだ……、こわい、ヘルムートさま……っ)
 たすけて、とエリスは願った。
 そのときだった。
 まばゆい光が室内を包み込んだ。
「な、なんだ……!?」
「――女の子をいじめちゃいけないんだぞ」
 突然、まだ変性期を迎える前の少年の声がした。
 光はすぐにおさまった。
「なんだ、お前は……」
 男がエリスの上に跨ったまま、訝しげに言った。
 長椅子の傍には、いつのまに部屋に入って来たのだろう、十二歳くらいの一人の少年が立っていた。
 エリスはその顔を見て驚いた。
「……ヘルムート、さま……?」
 蜂蜜色の髪に、紫の瞳。
 天使のような美貌は間違えようがない。
 それは子供時代の彼だった。

 * * *

 薄いピンクのうさぎのぬいぐるみは、ふいに長い耳をぴくりと動かした。
「エリス」
「なんだいきなり」
 レスターは急に立ち上がったうさぎを見た。
 さっきまでにこにこと絵本を読んでいたのに、いまはへの字口になっている。
「エリスがきけんだ」
「は?」
「おれにはわかるんだ、たすけに行かなきゃ」
「ニコ」
「えっと、あれがいいな」
 言うが早いか、ニコはたたっと走って祖父の部屋に入って行った。数分もしないうちに戻って来たそのふかふかの手には、額縁がにぎられていた。
「お前、それは……」
「エリスがむかし描いた絵だ。『ヘルムート』の絵だな。さいきん触ったけいせきがあるから、ここからたどってみる」
「ニコ、待て」
「だいじょうぶだぞ、レスター。おれ、エリスをたすけて必ずもどってくるからな」
 ニコはほっこり微笑んだ。








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